「死にたい」と向き合う
私は薬物依存症の治療や研究を専門とする精神科医ですが、実は、昨年度までのおよそ10年間、自殺予防に関する研究や啓発の仕事もやっていました。
だからというわけでもないですが、今回は、わが国の自殺対策の進歩と課題について、私なりの考えを述べたいと思います。
「自殺」と言えるようになった
わが国おいて、2006年に自殺対策基本法が制定されたことは、画期的な出来事でした。それまで国や自治体にとって努力目標にすぎなかった自殺対策が、この法律ができたことで、義務規定となったわけですから。以来10年間、国内各地で様々な対策が講じられ、結果として、最近6年間は、自殺者数が減少し続けています。
一体、どの対策が効果的であり、何が変化したのでしょうか?
正直なところ、私にはわかりません。ただ一つだけ、確実な変化を実感していることがあります。それは、「自殺」という言葉を口にしやすくなったことです。かつては多くの人が「自殺」という言葉を口にすることを怖れ、ためらっていたように思います。
今でも忘れられないのは、10年前、自殺対策の講演を依頼されたときのことです。主催者側は私に、「演題名に『自殺』という言葉を使わないでほしい」「講演は自殺の話ではなく、うつ病の話を」などと注文をつけてきました。どうやら主催者側は、「自殺」は 禍々まがまが しい言葉と捉え、その言葉が人びとを不快にさせるのを危惧したようです。
実は、この手の依頼は一度や二度ではありませんでした。
しかし、その後数年間で状況は一変しました。現在、国内各地で「自殺対策」「自殺予防」と銘打った講演会など、様々な啓発事業が展開されています。今や「自殺」は禍々しい言葉ではなくなり、目を 逸そ らさずに向き合うべき課題となったわけです。
これは好ましい変化です。というのも、「自殺」という言葉を忌避する社会では、追い詰められた人は「死にたい」という言葉でSOSを出すこともできないからです。
人は、追い詰められるほど、「死にたい」と言えなくなります。それは、告白を軽く受け流されたり、安易な励ましや説教をされたりするのを怖れるからであり、自分の告白が場の空気を白けさせ、相手を悩ませることを危惧するからです。
「死にたい」といえる関係性
興味深い研究があります。総合病院の救命救急センターに過量服薬による自殺企図で入院した患者190人の追跡調査です(Ando S, et al. One-year follow up after admission to an emergency department for drug overdose in Japan. Psychiatry Clin Neurosci, 2013)。この研究は、東京都医学総合研究所の安藤俊太郎先生たちが行ったもので、私もお手伝いをさせていただきました。
この研究の対象となった自殺未遂患者のうち、退院後1年間に再度の自殺を試みた方は42.4%でしたが、安藤先生らはこのような再企図を予測する要因を分析しました。その結果、再企図者の多くが、意識障害から回復後に医師が発した、「まだ死にたい気持ちがありますか」という質問に、「ない」と回答していたことがわかったのです。
この結果をどう解釈すればよいのでしょうか。「死にたいと言わない人ほど自殺」し、その裏返しとして、自殺にまつわる間違った迷信、「死ぬという奴にかぎって死なない」の正しさを間接的に示しているのでしょうか。
まさか、まさか。
おそらく自殺未遂患者は、何らかの苦悩が、解決困難な問題があったから、その行為におよんだのでしょう。ですから、救命救急センターでの治療によって意識が回復しても、依然として苦悩や問題は存在し、「死にたい気持ち」も残っていたはずです。
それなのに、彼らは「死にたい気持ち」を否定したのです。要するに、これは、「私にかまわないでくれ」「あなたには心を開かない」「あなたに自殺を止められたくない」という意思の表れではないでしょうか。反対に、医師に「死にたい」と訴えることができた患者は、それがSOSとして伝わり、退院後に自殺をせずにすんだと言えないでしょうか。
この研究が示すのは、自殺予防の重要なヒントです。つまり、自殺予防に必要なのは「死にたい」といえる人間関係であり、さらには、「自殺」という言葉から目を背けず、追い詰められた人が「死にたい」と言える社会であるということです。
「死にたい」と向き合う医療
しかし現状では、医療関係者の「死にたい」への対応能力には、まだ多くの課題が残されています。
救命救急センターのソーシャルワーカーからこんな話を聞いたことがあります。
そのワーカーは、最近ある精神科病院が自殺対策に力を入れるようになったという 噂うわさ を聞き、自殺未遂患者の入院をお願いしたそうです。ところが、なぜかにべもなく断られました。不審に思って理由を尋ねたところ、次の回答が返ってきたそうです。「院内での自殺事故防止のために、いっときも目を離せないような自殺リスクの高い患者については、入院をお断りしています」。
要するに、その病院の自殺対策とは、あくまでも院内に限局した対策だったのです。これでは、病院職員の精神衛生はよくなるかもしれませんが、逆に地域には、適切な治療を受けることができない自殺リスクの高い人が、行き場を失ってあふれてしまいます。
また、かつてある患者は、私にこんな愚痴を漏らしました。
――通院先の精神科クリニックの先生に「死にたい」って訴えたら、「自殺の危険がある人はうちでは診ることができない。入院しなさい」と突き放された。それで、精神科病院を紹介してもらったら、今度はそこの先生から、「入院するにあたって、まずは、何があっても自殺しないと約束してください」と迫られた。誰一人として、「なぜ私が死にたい気持ちになっているのか」を聞こうとしてくれませんでした……。
わが国の自殺対策の課題は明らかです。基本法制定後の10年で、「自殺」という言葉を忌避しない、「死にたい」と言える社会が作られました。次の10年の課題は、それをさらに進めて、「死にたい」に対応できる医療体制の整備です。
その意味で、わが国の自殺対策は、「総論」の時代から「各論」の時代へと突入したと言えるかもしれません。
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